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都知事選 2014 2月9日投開票

宇都宮けんじ物語 命守る都政に

 都知事選に立候補を表明した日弁連前会長の宇都宮けんじさん(67)。どんな人なのでしょうか。

(上) 

”悪いやつら”と闘い43年
    「人の役に立つ」が喜び

キックオフ集会後の夜9時過ぎ、冷たい雨の中でマイクを握る宇都宮さん

=1月8日、JR池袋駅前
 「いっさい手を引け、引かないんだったら、おまえが全額払え」。ドスをちらつかせ、すごむサラ金業者と暴力団風の取り立て屋。ここでビビってナメられたら終わりだ―。勇気を振りしぼって、大声で言い返しました。「あんた方、交渉にきたのか、けんかしにきたのか。けんかなら話し合う余地はありません! 弁護士のけんかは裁判、本件は訴訟提起します!」
 弁護士になって8年、サラ金問題に取り組み始めた青年弁護士、宇都宮さんの姿です。
 サラ金業者を規制する法律がなく、脅されることが頻繁だった1970年代。すぐ、サラ金業者を被告として債務不存在訴訟を起こすと、それまであった無言電話がぴたっと止まりました。サラ金業者の帳簿を全部出させると、150万円の請求が数万円ですむことが分かり、解決―。

クリーンな候補

 宇都宮さんは、振り返ってこう言っています。
 「サラ金からお金を借り、家庭崩壊、夜逃げ、睡眠薬自殺を図る、そんな人たちが、ぼくを頼ってたくさんくる。だから、頑張ってふんばらなきゃならない。怖いと言って引っ込んだら助けられないと思いました」「人間って、他人のために何かをしてあげることに喜びを感じる、すがすがしい気持ちになります」
 宇都宮さんが都知事選立候補表明後、初めて開かれた決起集会(8日)。同期の中山武敏弁護士(67)は、主催者を代表して次のように宇都宮さんを紹介しました。
 「共に弁護士として43年。弁護士になってから、貧困問題など社会の底辺で虐げられている人たちの立場で一貫して活動し、人の役に立つことがお金よりも自分の財産だと、いつも語っています。宇都宮さんがクリーンな候補であることは、誰もが認めることだと思います」
 サラ金事件を引き受ける弁護士が誰もいなかったとき、債務者が借りたサラ金業者の店を、何十店舗も一緒に回ることから始めた宇都宮さん。大きな社会問題になり、相談を受ける弁護士も増えていきました。
 個別の救済だけでは解決しない、高金利、過剰融資、過酷な取り立てに苦しんでいる多重債務者を救うためには、法律を改正して仕組みそのものを変えなければならない―。宇都宮さんのねばり強い立法運動が始まります。やがて被害者の全国組織が結成され、日弁連も本格的に動き出すなど全国民的な運動へと発展していきました。
 2006年12月、出資法の上限金利を年20lまで引き下げ、年収の3分の1を超える貸し付けを禁止する過剰融資の規制が強化されるなど、画期的な新貸金業法が成立。自民党を巻き込んでの歴史的な勝利≠ナした。
 「一人ひとりの力は小さいけれど、みんなの力を合わせれば大きな力となり、世論を動かし、ついには国を動かすことができる。そのことを、運動に参加したみんなが経験することができました」
 運動が実ったことが分かった瞬間、宇都宮さんは、熱いものが込み上げ、しばし言葉が出なかったと言います。

生い立ちが原点

 「人に役立つことを喜び」とする宇都宮さんの生き方の原点は、その生い立ちにあります。
 戦後、傷痍軍人として復員した父が、愛媛県に帰って結婚。大分県の国東半島へ、開拓農家として入植しました。鍬で木や竹の根を掘り起こし、畑にしていく過酷な開墾作業。宇都宮さんは、朝の3、4時頃から起きてグチ一つこぼさず黙々と働く父親の背中を見て育ちました。
 中学時代、プロ野球選手になりたいと思ったのも、「お金持ちになれば両親を楽にしてあげられる」と考えたからでした。その夢が挫折した後、官僚か大企業をめざして東大法学部を受験することに。それも「金持ちになり、親を楽にさせたい」という思いからでした。
 1965年、東大法学部に入学したのは、学生運動が大きく高揚した時代です。どう生きるのか、何のために学ぶのか、初めて真剣に考えるようになりました。貧しい人たちはたくさんいる、そういう人たちの苦労が世の中を支えているのに、自分だけが立身出世をしていいのか、学んだことを貧しい人たちのために役立てるのが、人間としてとるべき道ではないか―。そう思った宇都宮さんは、弁護士の道にかけてみようと決意したのです。
 弁護士活動を振り返って言います。
 「弁護士事務所で2度クビになり、弁護士に向いていない、田舎に帰ろうと思ったときもありました。そんなときも、サラ金事件を一つひとつ解決しながら、感謝されたことが自信になり、やりがいを感じさせてくれました。実は、弁護士として人間として私自身が鍛えられていった、私が一番救われてきたのです」

(東京民報2014年1月19日号に掲載)
(下)

人権、平和、憲法守って
 日弁連会長として指導力発揮 

反貧困世直し大集会でデモ行進する宇都宮さん(左から2人目)

=2010年10月16日
 「あのときは本当に感動的でした。日弁連の理事会では、これまで例のない出来事≠セったのではないでしょうか」
 一昨年5月、日弁連の宇都宮けんじ会長の任期最後となる理事会。事務総長を務めた海渡雄一弁護士(58)は、当時を振り返りながら目を潤ませたのです。

百人が総立ちに

 その感動シーンとは―。宇都宮会長が、最後の理事会の終了を告げたときのことです。約100人の理事が突然、席を立ち一斉に拍手。長く続き鳴りやみません。予想もしないスタンディングオベーションでした。
 宇都宮さんも「さすがに感動し目が『うるる』となった」と言うほど。隣りに座っていた海渡さんも同じ気持ちでした。前例のないことが、なぜ起きたのか、海渡弁護士はこう言いました。
 「日弁連が、市民と共にさまざまな人権問題などについて意見を述べ、政策・立法を提起して実現させた一つの画期をなした2年間だったからではないでしょうか」
 それを象徴しているのが、日弁連が出した意見書や会長声明などの数の多さです。意見書が253本、会長声明208本を合わせて461本にのぼりました。それまでの年度の2倍近くになります。そのうちの約半分は、東日本大震災と、それにともなう原発事故に関する意見書や会長声明。積極的な立法・政策提言を行うなど、任期中の中心的な課題の一つとなりました。

徳政令が必要だ

 日弁連は、東日本大震災が起きたその日、災害対策本部を立ち上げました。宇都宮さんも、すぐ現地に入って被災者の話を聞き、「徳政令が必要だと思った」と言います。「建てたばかりの家が流された」「借金を抱え、これからどうやって暮らせばいいのか」―。全国各地の弁護士会と協力し、被災者の無料法律相談を受けた相談は、3万7000件を超えました。
 その中から浮き彫りになった問題を解決するため、109本も意見書や会長声明などを出し、積極的な政策提言。その実現に取り組みました。深刻な二重ローン問題は、個人について「ガイドライン」が策定され、中小業者への対策法として「事業者再生支援機構法」が成立。原発事故の被災者を平等に支援する「子ども被災者支援法」も成立しました。
 日弁連などが被災者・被害者支援の一点で各政党に働きかけ、与野党の接着剤となって成立させたものです。多くの弁護士の意見を集約し、宇都宮さんが先頭になって取り組んだ成果でした。
 宇都宮さんは、2年間を振り返って次のように述べました。
 「個々の救済だけではなく、被害者団体などの運動体をつくり、立法運動をすることで世の中を動かし、法律を変えてきました。そのためには国会に影響を与え、過半数の議員の理解を得なければなりません。そうした運動がどれだけつながり、広がったのか、それが最も重要だと思います」
悪とたたかう人
 サラ金や多重債務問題の背後にある貧困問題の解決へ、ワーキングプア対策やセーフティーネットの強化に取り組みました。その活躍ぶりはNHKのテレビ番組「プロフェッショナル」でも紹介され、多重債務問題をテーマにしたベストセラー小説『火車』(宮部みゆき著)に登場するモデルにもなっています。
 年越し派遣村の名誉村長も務め、日弁連の会長を退任した後、憲法や秘密保護法問題などで、全国130カ所へ講演にも出かけました。
 「希望のまち東京をつくる会」の決起集会(8日)で海渡弁護士は、宇都宮さんをこう評しました。
 「弱者への優しさだけではなく、政策を提案し多くの人たちの信頼を一つひとつ勝ち取りながら実現させていく誠実な人。悪とたたかう強い指導力を備えた人です」

(東京民報2014年1月26日号に掲載)